違う私。同じ私。2010年09月03日

近頃、ご縁があって、
今の私や、
これまでの私を話す機会がそこここでありました。

それは何年前のことですか? と聞かれ、
10年、20年…?
いや、30年も前のことですわぁ~!

  (゜o゜)

と、自分でもびっくり!

びっくりのあとに一人で焦って、
もうずいぶん前の、前からの、ことなのねぇ、と、
我ながら、
もうそんなに生きてきてるんやわ!と、
しみじみびっくりするのでした。


かつて、
『ともだちあそび もっと』という手作り雑誌を作っていました。(写真)

それまで作ってきた、
同人誌(詩)やミニコミ、その他もろもろの延長線上の試みとして、
子育て中の出来事やそこで思ったことなども書き綴り、
誰彼となく伝え、
一緒に考えていけたら、
と思って作った雑誌でした。

その『ともだちあそび もっと』(通称『とも・もっと』)を、
読んでみたいと言ってくれた人がいて、
何年ぶりかで探し出して、
よせばいいのにパラパラとめくって自分でも読み出し、
読み耽り、読み耽り、
思いに耽り………。

なんだか、ずいぶん遠い昔のことなのに、
昨日や一昨日のことでもあったような気がして、
どうにもおかしな時間を漂うことになってしまいました。


創刊準備号は、1995年5月27日。
結果として最終号となった14号は、2000年6月1日の発行です。

それでさえもう15年から10年も前のこと。

2000年の6月以降に何が起きたのか。
その出来事以来、私は詩が書けなくなったし、
『とも・もっと』も作るどころではなくなってしまったのでした。

あれから10年。

途切れたままの『とも・もっと』を、
別の形でどうにかできないか。と、
思いはじめているところでもあります。

そんな中での『とも・もっと』の再読は、
当時の私との再会でもありました。

まだ若くて、将来への疑いもなく、
あたふたと子育てをしながら、
考えることをしようとしていた私。

その後の私の出来事を思うと、
なんて無防備で、
ある意味幸せな生活だったことだろうかと思います。

あれから10年。

でも今は、
当時の生活が幸せだったとは思えない場所にきました。

私はずいぶん変わってきたと思います。


それでも、
今でもまだ変わらない気持ちを持っていることを、
10年も前の私の「言葉」に出合って確認しました。

途切れてしまったその気持ちを、
ちょっと自覚的に持ちながら、
これからの私を生きていこうと思うことができました。


そんな途切れたままの『とも・もっと』を、
今、
読んでみたいと言ってくれた人に感謝します。


あれから10年。
たくさんの人に支えられて生きてきました。

今日は私の誕生日。
  
  たくさんの感謝を込めて。

   ありがとうございました。

カマキリご来店2010年09月08日

りとるの開店準備は、シャッターを上げることから始まります。

シャッターを開けて店内に入り明かりをつけ、
荷物を置き、冷房とラジオのスイッチを入れ、
留守電とFaxと伝言をチェックし、
看板を出しにまた外に出たら、
カマキリがいました。

(゜o゜)
もう一歩で踏み潰すところ。

カマキリに会うの何年ぶり?

そっとつまんで植え込みの緑に置き、
しばらくその姿を眺めていましたら、
店の電話が鳴り出しました。
あわてて店に入り電話をとると出版社から。
そうだ、今日は平日。
週末の店番ではめったにかかってこない出版社からの、
開店時間を待ってました!の電話に気が引き締まります。

その後は順調な開店準備。
カマキリはどこかへ行ってしまったやろねぇと思いつつ、
床拭き雑巾とバケツを植え込み横に持っていくと、
あら、まぁ!カマキリが、
植え込みの外灯を登っていました。

雑巾放って激写!(写真)

なにがしたいんやろねぇ、としばし観察。

やがて、よっこらしょっと、登りきりました。(写真)

どう?

なんだか自慢顔。ですね。

カマキリの次の動きが気になるものの、
床拭き、ホコリはらいと開店準備もしなければ…。
店内でばたばたしているうちに、
カマキリの姿はどこにも見えなくなってしまいました。

暑い暑いこの夏を、
カマキリはどこでしのいできましたかねぇ。

昨日の店番は、それからずっと慌ただしく、
お客さまにも店長にも、
カマキリ来店話と、携帯で撮った写真を見せる間もありませんでした。
ので、ここでご報告。


ところで昨日は、
小学2年生の女の子の誕生日プレゼントを探すお客さまのために本を選びました。
絵本、ではなくて幼年童話。
私はここんとこずっと、
中学3年生の女の子に、クリスマスの頃に渡す本を探しています。
ファンタジーではなく、
でも、リアル過ぎない物語。というリクエスト。

私が選んだ幼年童話を、
お客さまも楽しんで読んでくださり、そのままプレゼント本に決定!
プレゼント包装をしながら、
中3女子の本のことを思いました。

誰かのために本を選ぶの、好きですわぁ。
この頃は、そんな本読みが続いています。

こんばんは。木星。2010年09月10日

カメ係が、
混沌のクローゼットを整理し始め、
「この冬はヒーターが出せるよ」などと話すものだから、
「望遠鏡は?出せる?」と聞いてみたところ、
ケースに仕舞わず、
三脚に組み立てられたままの、
布をかぶせただけの望遠鏡が出てきました。

いったい、
いつから組み立てたまま放置してたのよ…。
 

(V)o¥o(V)


ちょっと前まで近づいて仲が良さそうだった月と木星でしたが、
あれから、
月がすっかり離れてしまい、
それでも、
毎夜毎夜、
独り、東の空からのったりと上る木星。
熱帯夜続きの夜空に、凛と涼しげな光を放っていて、
見過ごせず、
いつか望遠鏡で、その美しい姿を拝見したく…と思っていました。

待望の望遠鏡は出てきましたが、
夜になっても、うっ、と息を止めたくなるほどの暑さで、
なかなかその気になれずにいました。

それが先日の台風東京横断の後、やや秋の気配となり、
朝晩涼しい頃となり、
窓を開けると、
ひんやりとした風が入って心地よい今夜、
天気も上々。
それでは、と、夕食の片づけを早々にすませ、
部屋の明かりを消して、
一人、望遠鏡を覗いてみることにしたのでした。(写真)

いったい何年ぶりですやろねぇ~な望遠鏡操作でしたので、
なかなか木星を捉えることができません。
でも、焦らない焦らない。
こんな調子でうまくいかないなか、
星の光がひょいっとレンズに入ってくる、
その瞬間も楽しいのです。

そして、点点のガリレオ衛星を従えた木星がお目見え!

うわっ!

思っていたより小さいけれどシャープな姿に一瞬のけぞり、
すぐさまピントを合わせ合わせして、
その姿をよりきれいに見ようと集中しました。

ほ~~~~(^。^)

そして、カメ係を無理やり呼び出しにかかりました。

望遠鏡の準備中には無関心だったカメ係。
それでも出てきて見る気になったのはいいけれど、
部屋の明かりをつけて見ようとするから、
直後に明かりを消し、
「そこそこ、その上のレンズを覗くのよ!」と、
ちょっと偉そうに指導。

暗がりでレンズを探すより前に、
レンズの奥で輝いている光が目に入り、
「わかるわかる。見えるから!」の返事。

どうや~。
きれいやろ~。
木星やで~。
ガリレオ衛星もあるでぇ~。

いきなり関西風おばちゃんに変身して、
望遠鏡の横であれこれ言う私をうるさがらず、
カメ係はしばし無言で覗いていました。

人は、美しいものや、思ってもみなかったものを見ているときって、
言葉をなくすものですよね。


そういえば昔、
実家の庭で月や木星や土星を望遠鏡で捕まえては、
家中の誰かれを呼び出して、
望遠鏡を覗いてもらっていました。
あのときの、みんなの反応を見るの、楽しかったです。

台所の戸ががらりと開いて、
スリッパ履きの父がふらりとやってきたこともありました。
一足先に見た母の興奮ぶりに、
無関心ではいられなくなった様子でした。
でも、あくまでもふらり、な感じで。
一言二言の会話もしたような気がします、けど、よく覚えていません。
望遠鏡を覗く姿を見ているだけで満足でした。

あの夜も木星を見たのかしら。
それとも、土星でしたか…。

思えば、モノゴコロついた頃のカメ係に、
もっと望遠鏡を覗かせたかったです。
我が家の状況が激変し、
望遠鏡はクローゼットの奥深くに沈んだままとなり、
その機会を失くしてしまいましたから。

それでも、今の、期間限定見晴らしのいい空のおかげで、
望遠鏡も復活!となりました。

でもその間、土星を見ることはできなさそうです。

土星は今、太陽に寄り添っています。

それもまた、ご縁、ということですねぇ。

いつか、
今度はカメ係が運転する車に望遠鏡を積んで、
天体観測キャンプ、とか、できますかしら~。

どうやろ、ねぇ。  (~_~;)

?ぷかりぷかり2010年09月12日

今日の新聞の書評欄に、
読了直後の本の記事をみつけてびっくり!

 『尼僧とキューピッドの弓』 多和田葉子 講談社 2010/07 (写真)

書評記事は、朝日新聞9月12日朝刊、鴻巣友季子(翻訳家)による書評です。

“仕掛けに満ち キュートさ全開”とタイトルが付いていて、
さっき読み終えて閉じた本の、私の読後の印象とずいぶん違ってびっくり。

多和田葉子の本は、
デビューの頃に読んだ覚えがあり、
けれども当時の私には、
読みこなせず手に負えず感があり、
それ以後は触らずにきていました。

それなのに、この本を読もうという気になったのは、
「尼僧」と「弓道」と「駆け落ち」というキーワードに興味を持ったからです。
尼僧と弓道?
そして、駆け落ち~?

最近、
児童文学やマンガで「弓道部」ものを読んでいて、
弓道って、禅につながって、ちょっとしたブームなのかしら?と思っているところもあって、
苦手多和田葉子と知りつつも、ついつい、図書館に予約を入れ、
このたび読了となったしだいです。

ところがこの本は、するすると面白く読め、
私の読者年齢(精神年齢?)が多和田さんに近づいたのかも!と、思っていましたが、
書評によると、
“いつになくストーリーラインが明確で読みやすい”
とあり、
あら、そう!そういうこと!なのね~。と。

評者は、
“多和田ワールドのキュートさ全開の一冊である。”
と、書評を締めているけれど、
私は読みながら、
人物(人間)の分析とその再構築の鋭さと見事さに惚れ惚れし、
どれだけ知的な小説なのよ、と思ったので、
「キュート」のキュの字も思い浮かびませんでした。

それはまぁ、私の多和田ワールド経験値不足。
読者年齢(精神年齢)がまだまだ幼いせいなのでしょう。

ところで、物語は二部構成。
二部は、一部の謎解き、と、聞いていたけれど、
私はそうは思えませんでした。
尼僧と弓道の関係や、駆け落ちの真相は語られるけれど、
謎は謎のまま。と思いました。

何を謎とするのかにもよるのかもしれませんが。


それにしても、
近頃の児童文学(Y・A)、特に日本人作家の物語は、
どれもこれも似たりよったりと思うのは私だけでしょうか?
登場者が小・中・高校生の未成年であるにしても、
その生活圏がどうにも似かよっていて狭く感じられるばかりです。
登場者たちの行動範囲の狭さはもちろん、
大人の世界を垣間見ることから生じる想像や空想や妄想の世界が見えてきません。
狭くて窮屈なコミュニティーの中で閉塞的に物語は完結していきます。

それは、
宮崎駿さんが不快感を表明した、
iPadに象徴されるネット世界を漂うことで完結するとする人(作り手・作家、編集者、出版社)が増えたからでしょうか?

『尼僧とキューピッドの弓』を読みながら、
人々の世界(生活・人生)は思いのほか複雑で、
複雑であってよく、
複雑であるがゆえに、
豊かで尊いものと感じられもするのだと思いました。

その複雑さや、理解しがたさから、想像力や寛容力が養われ、
人を人として尊敬し、尊敬され、認め認められていく関係が成り立っていくのではないかと思うのです。

そのあたりが、今の児童書には足りないと思えてならず、
オススメしたい物語に出合えないのもそのせいかも、と思うこの頃です。


そしてそして、
新聞の書評欄で次に紹介されている本、
『傷だらけの店長』 伊達雅彦 パルコ出版
は、以前から書店出版業界で噂になっている本です。
あちこちで紹介記事や感想文を読むので、
読んでいないのに読んだ気になっていて、
今日の書評記事にも目新しさは感じませんでした。

というか、
この本を読んで驚かれている書店の日常的労働の過酷さなんて、
私が松江今井書店殿町本店に勤めていた20数年前と変わらない実情です。

なので私としては、何を今更!です。

ということは、
ここにきてやっと、その実情に目が向けられるようになったほど、
出版業界の状況は深刻だということなんだと思います。

なにが問題?

って、
20年以上も(おそらくそれ以上も前から)変わらない、
書店の実情を知らず、知る気もなく、
書店や書店員を大切にしてこなかった、
業界の甘えが問題なのではないでしょうか。

大切にするどころか、
当時、取次ぎなんてすごい威張ってましたよ。
大手出版社も偉そうにしてはりましたし。

実店舗がなくなっても、ネットがあれば本は売れるのでしょうけど、
そんな、なんもかんもネットで完結させてしまおうとして、
果たして、これからの読者が育っていくのでしょうか。
子どもへの本(絵本)の与え方を含めて、
私には、疑問がぷかりぷかりと浮かぶばかりでございます。

なでしこ咲いています2010年09月16日

東京では、
局地的雷雨がたびたびとなり、
そのまま秋の空気に入れ代わり、
すっかり涼しくなりました。
夏の格好でいると寒いぐらいです。

夏以降の予定がすっかり変わってしまい、
心身ともども混乱気味だった我が家ですが、
ここにきてどうにか落ち着いてきました。

体調も回復傾向。

それぞれが、それぞれのペースで、
新しくはない我が家での、
新しい生活を模索し始めています。

私は、なでしこの苗を買い、ベランダの鉢に植え替えました。
買ったとき咲いていた花が終わり、
次の花が咲き出したところです。(写真)

どうせ引っ越すからと、放り投げていたあれこれに目が向きはじめ、
仕事や、用事のない日でも忙しく、
我が家の生活状態改善作業にいそしむようになりました。


やっとやってきた秋のことはもちろん、
もうすでに注文が始まっているクリスマス絵本や来年のカレンダーや手帳のことから、
今年の冬や、来年の始まりのことなど、
これまで久しくなかった穏やかなココロモチで考えることもできるようになりました。

あとあとに後回しにしてきた私のことも、
できることとできないこと、
願えることと願えないこと、
叶うことと叶わないこと、
することとしないこと、がありながらも、
後回しにする必要はないのだ、と思って、
思うたびに新鮮に驚き、
どう、しようか、
どう、したいのかな、私。
と、考えるようになりました。


この秋は、懐かしい人がやって来るというお知らせがありました。

再会、できるといいです。