182 仏教史 ― 2008年10月23日

『もう殺さない ブッダとテロリスト』
サティシュ・クマール 加島牧史/訳 バジリコ 2008
銀座の「ギャラリーバー・カジマ」の加島さんが、翻訳本を出されたと聞き、本も、バーでみたけれど、やっぱり、図書館にリクエスト。
リクエスト時には未所蔵でしたが、このたびやっと購入してくれて借りて読むことができました。
分類は 182 仏教史 です。 (…いいのかしら。これで。)
イエス・キリストの次がゴータマ・ブッタ。は、偶然です。
でも、先日。
とある人から「イエスとブッダは同一人物っていう説があるの知ってる?」と聞かれ、はあ?っと、思いつつ、そういえば、コミック『聖☆おにいさん』(中村光 講談社)でも、イエスとブッダがすんなり名コンビしてるし…そんな説も有り?いや、まさか?どうなの?と思ったり。
そんななか、この本にも、トマス・ムーアという人が「テロル、その聖なるもの-アングリマーラの物語によせて」の中で、“イエスもブッダもともに、(中略)”と書いているのを読んで、イエスとブッダはそんなに近いのね。…と思っていいんだと思い始めているところです。
原題 The Buddha and The Terrorist (ブッダとテロリスト)
ここでいうテロリストが“殺人鬼のアングリマーラ”で、そのアングリマーラがブッダと出会い改心し“アヒムサーカ(非暴力のひと)”になる物語。
これは、仏教の経典にあると「序章」で述べられています。
殺されることを恐れずアングリマーラに語りかけるブッダ。ブッダの言葉に触れ“もうひとつの自分との出合いが起こった”アングリマーラは剣を捨て、暴力を捨て、目覚め、アヒムサーカ(非暴力の人)となるのです。が、愛する人を殺された人たち(被害者)はアヒムサーカとなったアングリマーラを許すことができません。
加害者と被害者の壁を乗り越えて、暴力の連鎖を断ち切るため、ブッダは何を語り人々はどう受け止めるのか。
それはとても興味深い言葉のやりとりです。
それゆえ、饒舌。
剣ではなく、言葉を使うのですから。
ブッダの言葉に隙はありません。
…それにしても、やや、…うんざり…。
ショウジキナトコロ…。
ブッダは、おしゃべり。
という感想を言ったら、加島さんは、また、カウンター越しにあきれたような顔をしはるかも。
行くたびに、毎度そんな感じなもので…。
すみません。未熟者です。
サティシュ・クマール 加島牧史/訳 バジリコ 2008
銀座の「ギャラリーバー・カジマ」の加島さんが、翻訳本を出されたと聞き、本も、バーでみたけれど、やっぱり、図書館にリクエスト。
リクエスト時には未所蔵でしたが、このたびやっと購入してくれて借りて読むことができました。
分類は 182 仏教史 です。 (…いいのかしら。これで。)
イエス・キリストの次がゴータマ・ブッタ。は、偶然です。
でも、先日。
とある人から「イエスとブッダは同一人物っていう説があるの知ってる?」と聞かれ、はあ?っと、思いつつ、そういえば、コミック『聖☆おにいさん』(中村光 講談社)でも、イエスとブッダがすんなり名コンビしてるし…そんな説も有り?いや、まさか?どうなの?と思ったり。
そんななか、この本にも、トマス・ムーアという人が「テロル、その聖なるもの-アングリマーラの物語によせて」の中で、“イエスもブッダもともに、(中略)”と書いているのを読んで、イエスとブッダはそんなに近いのね。…と思っていいんだと思い始めているところです。
原題 The Buddha and The Terrorist (ブッダとテロリスト)
ここでいうテロリストが“殺人鬼のアングリマーラ”で、そのアングリマーラがブッダと出会い改心し“アヒムサーカ(非暴力のひと)”になる物語。
これは、仏教の経典にあると「序章」で述べられています。
殺されることを恐れずアングリマーラに語りかけるブッダ。ブッダの言葉に触れ“もうひとつの自分との出合いが起こった”アングリマーラは剣を捨て、暴力を捨て、目覚め、アヒムサーカ(非暴力の人)となるのです。が、愛する人を殺された人たち(被害者)はアヒムサーカとなったアングリマーラを許すことができません。
加害者と被害者の壁を乗り越えて、暴力の連鎖を断ち切るため、ブッダは何を語り人々はどう受け止めるのか。
それはとても興味深い言葉のやりとりです。
それゆえ、饒舌。
剣ではなく、言葉を使うのですから。
ブッダの言葉に隙はありません。
…それにしても、やや、…うんざり…。
ショウジキナトコロ…。
ブッダは、おしゃべり。
という感想を言ったら、加島さんは、また、カウンター越しにあきれたような顔をしはるかも。
行くたびに、毎度そんな感じなもので…。
すみません。未熟者です。
最近のコメント