もう残暑!2010年08月13日

残暑お見舞い申し上げます。

お盆休みで、
おかげさまで都内は人が減っています。

今年も、高速道路の渋滞も、新幹線の混雑も関係のない我が家。

大学生となったカメ係の初めての夏休みでもあり、
どれだけ、のんびりゆったりな夏を過ごしているかとお思いでしょうが、
ところがどっこい!
日替わりで、
いろんなことが起きています。

ゆうべ会った人に話したこととは違う事態が、
今朝の我が家に起こり、
数日前に一緒に飲んだ人に語った未来予想図が、
振り出しに戻る状況となり、
明日はどうなる。
明日、どころか、数時間後にはどうなる!
な、流動的事態発生中の我が家です。



そんな、ぐらんぐらんの流れの中、
 
  映画「借りぐらしのアリエッティ」 スタジオジブリ 米林宏昌監督作品

を見ました。
見た日に、
ブログに感想を書いている最中のPCトラブルで、全部消失してしまい、
書き直す気力もなく、
再び流れの中に身をゆだねました。

あらためて感想を一つだけ言えば、
「借り」と「狩り」がきちんと聞き分けられた声優(俳優)さんたちの言葉の確からしさは、さすがだなぁ、と。
聞き分けられたということは、
それぞれの状況が把握できたってことですから。
「借り」の暮らしと「狩り」の暮らし。
その違いが面白いと思いました。


そして、待ちに待った本も読了しています。

 『古書の来歴』 ジェラルディン・ブルックス 森嶋マリ/訳
              ランダムハウス講談社 2010/01

「サラエボ・ハガダー」という、実在の書物(ユダヤ教が絵画的表現を禁じていた中世に作られた、美しい絵が描かれているヘブライ語の最古のユダヤの書)に着想を得た小説です。

そう、この本は小説。
なんです、ねぇ。

それが面白くもあり残念でもあり。な物語でした。

何が残念って、
主人公の女性のプライベートな感情と行動が、
いつかどこかの小説や映画(ハリウッド)で繰り返し読み見したもののようで、
せっかくの着想が、ベタな物語になってしまっているところです。

もったいない~。と思いつつ読了しました。

待ちに待った本だったから、残念感がよけいに強いのかもしれません。


そしてこのお盆の時期は、
いよいよ「古事記」系と「出雲風土記」系の本を集中読書!
ともくろんでいましたが。。。

なにしろ、ネコノメ我が家ですから。


次に会ったときの私の話が、
前回の話と大きく違っていても、
どうか驚かないでやってくださいませ。

(V)o¥o(V)

8月、になっているのよ~2010年08月04日

あれもこれも、帰省から戻ってから、
と決めていた、
その、
あれもこれも、の、
日程、その他調整をする間もなく、
いきなりイレギュラーな事態が発生し、
気づけば8月になっており、
さらにあたふた。

これじゃぁもう、
どこから手をつけていいのかわからなくなって、
結局みんな放り出して眠りのヒキコモリに陥りそうになったので、
とりあえず小休止。
アタマの中のあれこれの羅列に句点を打とうと、
その他全部を後回しにして、
6日までの上映と知った映画を見に行きました。

 『パリ20区、僕たちのクラス』 監督 ローラン・カンテ 
                      岩波ホール (写真はチラシの一部)

“観客全員に ドキュメンタリーだと 思わせた驚異のリアリティ”とチラシにありましたし、
いつだったか読んだ新聞の映画評にもそのように書いてありました。

だけど、私はドキュメンタリーみたい!とは思いませんでした。

映画は、
常に言葉にあふれていました。
その内容を理解するため、日本語訳の文字を追いかけるのに必死。

会話、というやや形式的で次の話者を想像できるやりとりではなく、
問いかけたり、
放り投げたり、
ぶつけたり、
攻撃したり、
つぶやいたり、
ささやいたり、
受け止めて返したり、
返さなかったり、
あらぬ方へ飛ばしたり、
飲み込んだり、
連射したり、
援護射撃したり、
さえぎったり、
すべてを拒否したり、
受け入れたり、
受け入れるふりをしたり、
などなど、の、やりとり。

それは、
教室で行われる国語の授業であったり、
先生たちの会議であったり、
先生と保護者の面談であったり、
居残りを命じられた生徒と先生であったり、
懲罰会議であったり、
などなど、の、場面でのこと。

あふれる言葉は沈黙を生まず、
ドキュメンタリーにあるはずの、
「外の音」がもれ聞こえることもなかったように思いました。

それを思ったのは、
映画が終わったあとのエンドロールのとき。
無意識に期待した音楽が流れてこず、
無音のまま文字の列挙が続き、
そういえば、この映画、BGMがなかったかも…と思ったのです。

発せられる言葉と、表情と、しぐさ。

それだけで成り立っていたように思えたこの映画は、
ドキュメンタリー、というよりは、舞台劇のようだったと思いました。

そこに、リアルな息づかいや緊張感、
空気の揺れを感じられたのだと思います。


学校の様子や、子どもたちの家庭環境、事情には、
フランス(パリ)ならでは、と思うものもありましたが、
子どもたちと、
彼らを見守り支え育てる大人(先生・親)たちの姿は、
どこも同じ。

人と人との係わりやつながりの中で、
子どもも大人も育ち変化していくんだなぁと、
しみじみと見終わりました。


岩波ホールでの上映は6日まで。
最終上映が近いので、お客さんは少ないだろうと思っていましたが、私が見たときは満員に近い状態でした。

ご興味のある方はぜひ!
余裕を持ってお出かけください。
暑いですしね~。
あっ、でも、会場に入ると冷房ですぐ冷え冷え寒む寒むになりましたので、
そちらもお気をつけください。

足元が冷えると腰にきますから。

立派感のカケラもなし2010年06月05日

小平へ行ってきました。

ルネこだいら中ホールでの
映画「葦牙」の上映会です。

ルネこだいらは、西武新宿線小平駅前にあって、
行けばどど~んとすぐにわかるのですが、
私は、小平駅、どころか、
西武新宿線に一人で乗ったことあったっけ?というほどの初心者なので、
中央線の国分寺駅で乗り換えたあと、
次の乗り換え駅がわからなくなって焦ったり、
乗り換えホームを間違えて後戻りしそうになったり、で、
たどり着くのに集中力が必要でした。

それで、無事にルネこだいらに到着し、
会場で席を決めてよっこらしょと座ったら、
それでもうなんだかすんだような気になってゆるんでしまっていました。

が、

会場は、中高年の「高年」さんを中心にどんどん埋まっていき、
あちこちから聞こえてくる会話や、
名前を呼んで席を勧める声に、
もしかしたら私って場違い、かも?と思いはじめ、
いやいや、そんなことはどうでもよかろう~と思い直し、
静かに上映を待ちました。

映画はおよそ2時間。

「途中に休憩はございませんので、トイレは上映前にお願いします」
という事前のアナウンスがあり、
トイレ、よりは腰が痛くなると困るなと思い、心配しましたが、
少しも時間の長さを感じさせない映画でした。

映画は、
その後にあった監督さんのトークショーで垣間見れた監督さんの人柄が、
そのまま映し出されていたような気がして、
いや、
そういう感想ではいけないのかもしれませんが、
私は、なんだかちょっと嬉しくなっていました。

子どもたちを囲んでいる大人が、みなさん大人でした。

ちゃんと大人をやってくれている大人の中にいるから、
子どもたちは、
安心して子どもでいられると思っています。

ちゃんとした大人でなくても、
 (ちゃんとした大人ってどんな大人かわかりませんが)
子どもにとっては、
ちゃんと、大人でいてくれれば、それで。

その一方で、
インタビューに応じた母親の言葉や表情に、
私は居心地の悪い不安なものを感じました。

母親は自分もまた虐待を受けてきたと言います。

それで、
虐待の連鎖、
暴力の連鎖、
が、
そこに生じていることを知らされます。

知らされる、と同時に、
加害者である母親は実は被害者でもあるのだ。
と、意識がスライドしていきます。

そのスライドする意識のゆらぎの隙間に、
母親がするりと入り込んでくるのです。

子どもにとってはそんなことは何の言い訳にもならないはずなのに。

その、居心地の悪さ。

私はそれを居心地悪いと感じてしまいます。


そしてまた映画を見ながらずっと、
他者から見れば子育てに熱心だったり、
子どものためにとがんばっている親によって、
精神的に追い詰められていく子どものことを考えていました。

暴力による虐待は目に見えやすいのですが、
精神的な虐待(虐待と言っていいと思います)は、
どうやったらそれと自覚できるようになるのでしょうね。


トークショーの中で観客との質疑応答があり、
「児童虐待は、個人の問題ではなく社会の問題だと思っている」という観客の発言がありました。

たしかに、社会の問題かもしれません。

でも、
私にはそれはただ立派感のある言葉にしか聞こえませんでした。

立派感。

映画が始まる前にも感じた、空気。

立派感を放つ、活動する人たちを前にして、
私は、
黙るしかないような気になります。

そういう人たちによって、この社会はよりよいものへと動いていっているって、一応、わかってはいるんですけどね。。。

それから、映画の後半、泣いてずっと鼻をすすっている観客がいました。

児童虐待。
育ち直し。

映画「葦牙」は、
さまざまな感情の波を立たせ、
ココロの底に沈み込んでいる思いを揺さぶる映画でした。


そんなことをぼやぼや思ったものの、
小平駅からは、帰りの乗り換えのためにまた集中!です。


もうちょっと余裕で電車を乗りこなせるちゃんとした大人になりたい…。

結局、一日の終わりの感想がそんななんでした。

あしかびのごとくにもえあがれる2010年04月24日

ご縁があって、
二年前にお会いした人と再会しました。

早稲田大学文学部正門前で待ち合わせ。

なにしろ、お会いするのは二度目。
しかも二年ぶり。

冷たい小雨が降り、
ごった返す学生さんたちの群れの中、
少しだけ先に着いてぼんやりしている私に、
「ながみさん?」と声をかけていただき、
無事の再会となりました。

ご無沙汰しておりました。
そして、このたびは不思議なご縁でまたお会いすることができました。

その後、授業を終えて待ってくれていたカメ係とも合流。

三人でゆっくり話す時間もいただきました。

な~んだか、ほんとうに不思議なご縁と思いました。



さて、このたびの再会で、映画のチラシ(写真)をいただきました。


 小池征人監督作品
     『葦牙 あしかび』 こどもが拓く未来
                  みちのくのある児童養護施設の記録

“児童虐待の
 当事者となった人たち
 今──、こどもたちが
 自ら未来を語りはじめた” (チラシより)


児童虐待で傷ついたり亡くなったりする子どもたちのニュースは、
今ではもう、めずらしいことではなくなってきています。
繰り返し起きる事件に、
「どうにかできなかったのか!」とマスコミの人たちは言っていますが、
どうにかしている人たちはいます!

救われ保護された子どもの数は、まだまだ少ないのかもしれませんが。

そして保護され施設に暮らす子どもたちと、
その子たちを支えている大人たちの記録映画が『葦牙』です。

葦牙 あしかび

このタイトルに、私はもういきなり映画に込めた大人たちの気持ちを受け取ってしまいました。   

チラシにも説明があります。

“「葦牙(あしかび)」とは葦の若芽のことです。”
“この言葉の始まりは古く、古事記にも「葦牙の如く萌え騰れる(あしかびのごとくに もえあがれる)」と神々の誕生が記されています。”
“子どもたちは毎年、息づく葦のごとく、力強く生きています。”

葦牙 あしかび

古事記には、
“葦牙の如く萌え騰れる物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)”とあります。


子どもたちは、どのように生きて育っているのでしょうか。
支え見守る大人たちは、どのような姿を見せてくれているのでしょうか。

映画を、観たくなります。

チラシには、
“本作品は、スクリーンでの上映のみという条件のもとで、制作が実現しました。DVD等の映像ソフトの販売及び、テレビ等での放映はありません。ぜひ、上映に足をお運び下さい”とあります。

そこで、上映会のお知らせ&お誘いです。

 
 *ルネこだいら中ホール (西武新宿線小平駅前)
 *平成22年6月4日(金)
    14:00~(開場13:30)
    19:00~(開場18:30)
 *一般 当日1200円(前売1000円)

  【チケット取り扱い】
   『葦牙』上映小平実行委員会  
      Fax:042-326-3076 
      Mail:ashikabikodaira@yahoo.co.jp
   ルネこだいらチケットカウンター  
      Tel:042-346-9000


知って考えます。
考えて、また知っていきます。

そんな日々の中に『葦牙(あしかび)』を留めておきます。


その、二年ぶりの再会で、
留めておきたいこと(言葉)を、たくさんいただきました。

我が家の地殻変動初期微動は、
いつか主要動となるかもしれませんが、
ココロして立ち向かえるような気がしてきました。

ありがとうございました。

ちいさなひと2010年03月25日

ジブリの新しいアニメ『借りぐらしのアリエッティ』(7/17公開)の原作は、
『床下のこびとたち』(メアリー・ノートン 岩波書店)です。

『床下のこびとたち』は「小人の冒険シリーズ」全5巻の第1巻。
岩波書店は、少年文庫版とハードカバー版のどちらも函入りセットを用意。

これから夏にかけて、ノートンさんのこびとさんが街にあふれそう…と思っていましたら、
ここにもこびとさん(というより「ちいさなひと」)をみつけました。

 『引き出しの中の家』 朽木祥 ポプラ社 2010 (写真)

「花明かり」というちいさなひとの少女と人間の少女。
196*年と200*年。
それぞれの世代をつなぐ少女たちの物語です。

甘くてかわいらしい、子どものための物語なのですが、
大人の女性のみなさんにも、
「まぁ、ちょっと読んでみてみて!」とオススメしたいなぁと思いつつ読了しました。

女の子ゴコロがくすぐられます。

ドールハウス(引き出しの中の家)を作って人形遊び。
お菓子作り。

私にはあまり縁も興味もなかった女の子の暮らしですが、
私もちいさなひとに出会っていたら、
わくわくどきどき、
あれこれあれこれ、
あたふたあたふた、
と動いて、夢中になっていたにちがいなく。

それなのに、
理由も「さよなら」も伝えられずに「花明かり」の少女と別れてしまわなくてはならなかった、人間の少女(私よりやや上の世代)の気持ちを思うとせつなく、
後の物語のなかで、ぜひ再会してほしいなぁ。
私だったらぜったい会いに帰るし!と思って本を閉じたのでした。

そしてなにより気持ちがよかったのは、
「花明かり」というちいさなひとのココロモチでした。

“姿の有利に乗じて”

ちいさなひとはその小ささを有利にして、
人間と対等に向き合っています。


ところで、
我が家にも盆栽の桜があります。(物語参照)
去年は咲かなかったけれど、
今年はたくさんのつぼみがぷっくり待機中。
もうすぐ咲きそうです。

花明かりさん、いらっしゃいませんかぁ~。


夏には「アリエッティ」さんにお会いすると思いますが。。。