息継ぎをしなければ2009年01月20日

この一週間、日替わりメニューな日々でした。

私は、いったいどれだけの懸案事項を抱えているんでしょう。
それが日替わり短期集中でやってきました。

最優先事項の先週末を無事通過し、
や~れやれ!と思ったのもつかの間、
次にやってきたメニューに、とうとう許容量オーバーを自覚しました。

あかん。息ができひん…。
笑わなければ。笑っていなければ。笑ってやりすごさなければ。
意識して笑い声を発した勢いで息を吸うしまつ。
 
何があったか、話すのはオックウです。
それに、ひとつひとつ思い出したところでね…(=_=)

今朝は目覚めとともにお腹にきて、いよいよ寝込むのか…と思いましたが30分で復活。お弁当を作り、カメ係を送り出すと、用心しいしいおこたで過ごしながら「この一週間のあれこれにはもう疲れた~!」と心で絶叫しつつぼんやり。お昼ころには、身心ともに大丈夫そうとなり、むっくりおこたから出ると、たまっていた家事やら作業やら、食材の買い出しやらに走りました。

今日は息継ぎの日。

ああ、このまま泳いで海を渡りたい~。
                      ナンノハナシヤラ (V)o¥o(V)

死にはせぬどこへも行かぬここに居る2009年01月23日

『人生は愉快だ』池田晶子 毎日新聞社 2008


一昨年亡くなった著者の未発表原稿が、
“死んでからでも、本は出る!”
と、出版されたのがこの本。

「死(あっち)」と「生(こっち)」についての考察が、観念的に抽象的に具体的にいいかげんにてきとうに熱く軽くクールにおちゃめに語られています。

「死(あっち)」は、
仏陀に老子荘氏孔子イエス、ソクラテスプラトンピュタゴラスヘラクレイトスエピクロス、デカルトパスカルスピノザカントヘーゲル、キルケゴールショーペンハウアーニーチェマルクスシュタイナー、フロイトユングハイデガーヴィドゲンシュタイン西田幾多郎、臨済空海道元親鸞一休
といった、古今東西のなんだかすごい人(思索者)たちの「死」についての言葉を紹介。
それについて著者の解説というか感想というかが語られているのですが、これが、難しい。
そもそも、思索者さんの言葉がまずよくわからない。

ものすごく考えていた人たちは「死」についてもフクザツに考え過ぎてるんちゃうの?と、
自分がわからないことを棚にあげて、そんなざっくりした感想を持ってしまいました。

そんななかで、心に響いたのは一休さんの「一休道歌」の一首。

“死にはせぬどこへも行かぬここに居る 
         たずねはするなものは言わぬぞ”

これは臨終の歌とあり、ああ、いいな。 と。

「生(こっち)」は、
『Hanako』(マガジンハウス)に掲載された人生相談。

そのばっさりな感じがかっこいいです。

「死(あっち)」に向かう途中の「生(こっち)」にいる間に、せいぜい悩んで考えていきたいと思います。

私はここに居ます。
ときどきどこかへ行くけれども。

鎮西の畢(はて)、陸奥の際(きわ)2009年01月31日

先日、50~70歳の人たちに交じって、おそらく一番の若輩者として飲み会に参加しました。

一人息子が受験生で…と話すと、
「高校生?あら、かわいいわね~」という反応。
か、かわいいのか…。
そうか、かわいいと思えるようになるのか…。
人生にはまだまだ未知の領域が広がっているんだなと、
気が楽になったような重くなったような。

映画やオペラや小説の話題が出るも、固有名詞にほとんど聞き馴染みなく。
検査や手術の経過や事故の臨死体験や、亡くなった人の思い出が語られ、やがて今年これからのタクラミなどがとりとめなく果てなく続く会話を聞いたり聞き流したり、ときどき質問したりして、気づけばなんだかすごい量の日本酒を…。
いつの間にか2合入りの徳利を独り占めしており、さらに、向かいやお隣の方から別徳利のお酒をいただき、返そうとすると「いや~もう充分飲んだから」と逆にまたいただき…。
おそらく、一番の若輩者として、おいしそうにお酒を(実際おいしいんですが)飲んでいるだけでいいらしいと思い、聞き馴染みのない名前を、帰ったらネットで検索して調べよう…と、緊張気味にしていた頭をほどきました。

帰りの中央線では、その先で人身事故があり、運転再開のメドがただずのアナウンス。
一緒に乗っていた人が「自分で死ぬならその命もらいたいものだわ」と。

人生にはまだまだ未知の領域が広がっていそうです。

数日かけてやっと読了した
 『今昔物語集を読む』 小峯和明/編 吉川弘文館 2008
(写真)に、
 “鎮西の畢、陸奥の際” という言葉がありました。
説話の時代の日本列島を表した言葉のようです。

その先の世界を、やがて知る前のこと。
まるで、私のことのようだと、印象に残ったのでした。