子どもの育ちを邪魔する先生(大人)は ― 2008年07月16日

『「家庭教育」の隘路 子育てに脅迫される母親たち』
本田由紀 勁草書房 2008
著者の本田由紀さんの名前に覚えがある…と思っていたら
『「ニート」って言うな!』(光文社 2006)
の著者の一人(共著)でした。
大分県の教育委員会汚職事件の続報を聞いたり聞かなかったりしながらこの本を読了です。
この本は、子育て中の母親へのインタビューやアンケート調査資料を分析して、家庭教育の実体と、それが子どもにおよぼす影響が考察されています。
専門的な分析が論文言葉と構成によって記述されているので、読むのに一苦労。
副題に「子育てに脅迫される母親たち」とあるけれど、なぜか、切羽詰った脅迫観は感じられなかったです。それはきっと、データ分析による客観的な考察姿勢が全体を通して貫かれているからだと思います。
でも「おわりに」にある著者の造語“もじれ”がすべてを語っているようにも思えます。
“私は本書をきわめて「もじれ」(もつれる、もじもじする、じれる、こじれるなどが溶け合った感覚を意味する筆者の造語)ながら書いた”(p,240)
幼少時からの塾やお稽古ごとなど、家庭が用意できる教育への関心と機会の違いが、子どもの成績・進路・学歴・職業に直接・間接的に影響を与えていること。そういった家庭教育を知らぬうちに強制的に担わされている母親は、自分自身のライフスタイルのあり方(仕事か家庭か)を含めた、子育てだけではすまされない子どもの「教育」への重圧に、葛藤や悩みを抱えていることなどが指摘されています。
てまひまかけて金かけて…育て上げた子どもの行く末やいかに…。
大分県の教員採用汚職だって、家庭教育に熱心な親の身勝手な暴走と見てしまいました。
私も教育学部生でしたから、教員採用試験を受けたことがあります。当時(…20年以上も前!)だって、まことしやかにささやかれる噂もありました。だけど、このたびの大分県の事件には呆れてしまうばかり。
以前「子どもたちの育ちの邪魔をする先生(大人)ほど迷惑な存在はありません」と、とある人へ言ったことがあります。
子どもたちのまわりに、人生の見本市のような多種多彩な大人がいてくれるのはありがたいと思っているけれど、職業として子どもの育ちに関わる大人が、その子どもの育ちの邪魔をするなんてどういうことなのよ!と思います。自分の保身や私利私欲のため、子どもを利用するんじゃないわよ!です。
私もまだ子育て途中の身ですから、偉そうなことは何も言えませんが、子どもが産まれ、私の身体が二つに分かれた瞬間、この子と私はまったくの別人格、別々の人間であり、やがては別の人生を歩むんだなぁ~。ついさっきまで私一つの身体だったのに…。と、とても強い意識で自覚した記憶があります。
子どもはいくつになっても自分の子だけど、だからといって、自分の一部だなんて、そんなおこがましい考えは一度だって持ったことはない。なぁ~。(そこには、家族の辛い出来事があったりするんですけどね…。)
そういう意味では、子どもとの境界を持てない・持とうとしない母親の姿を見ると、ちょっとうらやましいような感じになったりもします。かな。
子の評価は母親の評価。
子の失敗は母親の失敗。だから失敗はさせません!的な子育て・家庭教育って、母親にとっては楽な選択・判断基準っぽく見えますから。
いやぁ~。我が家的には家庭教育以前に、家族のあり方自体が問われる問題を抱えていますから…。いやいや、まったく…。
この本の内容、私の中ではまだまだひきずります。
本田由紀 勁草書房 2008
著者の本田由紀さんの名前に覚えがある…と思っていたら
『「ニート」って言うな!』(光文社 2006)
の著者の一人(共著)でした。
大分県の教育委員会汚職事件の続報を聞いたり聞かなかったりしながらこの本を読了です。
この本は、子育て中の母親へのインタビューやアンケート調査資料を分析して、家庭教育の実体と、それが子どもにおよぼす影響が考察されています。
専門的な分析が論文言葉と構成によって記述されているので、読むのに一苦労。
副題に「子育てに脅迫される母親たち」とあるけれど、なぜか、切羽詰った脅迫観は感じられなかったです。それはきっと、データ分析による客観的な考察姿勢が全体を通して貫かれているからだと思います。
でも「おわりに」にある著者の造語“もじれ”がすべてを語っているようにも思えます。
“私は本書をきわめて「もじれ」(もつれる、もじもじする、じれる、こじれるなどが溶け合った感覚を意味する筆者の造語)ながら書いた”(p,240)
幼少時からの塾やお稽古ごとなど、家庭が用意できる教育への関心と機会の違いが、子どもの成績・進路・学歴・職業に直接・間接的に影響を与えていること。そういった家庭教育を知らぬうちに強制的に担わされている母親は、自分自身のライフスタイルのあり方(仕事か家庭か)を含めた、子育てだけではすまされない子どもの「教育」への重圧に、葛藤や悩みを抱えていることなどが指摘されています。
てまひまかけて金かけて…育て上げた子どもの行く末やいかに…。
大分県の教員採用汚職だって、家庭教育に熱心な親の身勝手な暴走と見てしまいました。
私も教育学部生でしたから、教員採用試験を受けたことがあります。当時(…20年以上も前!)だって、まことしやかにささやかれる噂もありました。だけど、このたびの大分県の事件には呆れてしまうばかり。
以前「子どもたちの育ちの邪魔をする先生(大人)ほど迷惑な存在はありません」と、とある人へ言ったことがあります。
子どもたちのまわりに、人生の見本市のような多種多彩な大人がいてくれるのはありがたいと思っているけれど、職業として子どもの育ちに関わる大人が、その子どもの育ちの邪魔をするなんてどういうことなのよ!と思います。自分の保身や私利私欲のため、子どもを利用するんじゃないわよ!です。
私もまだ子育て途中の身ですから、偉そうなことは何も言えませんが、子どもが産まれ、私の身体が二つに分かれた瞬間、この子と私はまったくの別人格、別々の人間であり、やがては別の人生を歩むんだなぁ~。ついさっきまで私一つの身体だったのに…。と、とても強い意識で自覚した記憶があります。
子どもはいくつになっても自分の子だけど、だからといって、自分の一部だなんて、そんなおこがましい考えは一度だって持ったことはない。なぁ~。(そこには、家族の辛い出来事があったりするんですけどね…。)
そういう意味では、子どもとの境界を持てない・持とうとしない母親の姿を見ると、ちょっとうらやましいような感じになったりもします。かな。
子の評価は母親の評価。
子の失敗は母親の失敗。だから失敗はさせません!的な子育て・家庭教育って、母親にとっては楽な選択・判断基準っぽく見えますから。
いやぁ~。我が家的には家庭教育以前に、家族のあり方自体が問われる問題を抱えていますから…。いやいや、まったく…。
この本の内容、私の中ではまだまだひきずります。
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