イヤな子ども ― 2009年06月07日

お酒を飲んでいて、いつしか二人きりになると、いつのまにか絵本の話になる人がいます。
絵本。というよりは、絵本作家さん。の。
そして最近、話題の着地となるのが、片山健さん。
の、『のまどくん』。
『のまどくん』 片山健 Gakken おはなしプーカ12 2008 (写真)
片山さんの絵本は、絶対的に子ども側、と思います。
子どもの側に立って、子どもに寄りそって、子どもを開放してくれます。
『のまどくん』は、外に出かけた「のまどくん」が、途中で「ひかるちゃん」に出会い、帰ってくるお話。
「のまどくん」はなんだって拾ってくるし、拾ってきたものを家の中に隠しているし。みずたまりを歩くし、やらなきゃいけないこともないし。
お母さんからすれば、
“また そんな もの ひろって きて” となるような子どもです。
「ひかるちゃん」は、イマドキは特に、変な、というよりは、アブナイ人、にもなってしまいそうな人です。
お母さんが「のまどくん」が「ひかるちゃん」と一緒にいるのを目撃したら…と、いらぬ心配までしてしまいます。
けれども片山健さんは、そんな「のまどくん」を、ご機嫌で嬉しくて元気な子どもとして描きます。
私も「のまどくん」のような子でした。と思えます。
だから、この絵本は、私もご機嫌で嬉しくて元気にしてくれます。
だけど、イマドキの子育て中の大人はどうだろうか。と、そんな話しにもなります。
みずたまりを歩くのを禁止したり、落ちているものを拾うのを禁止したり。禁止するどころか、触るのもダメという場面に出会ったこともあります。
知らない人(「のまどくん」は「ひかるちゃん」を知っていて好きなんですが)と話したり一緒にいることは絶対ダメだろうし。
そして、イマドキ、やらなくちゃいけないことがない子どもって、いるかしら?
それを良し!としている大人って…いる、かしら、ね。
だから絵本『のまどくん』が成り立つのだろうと思います。
「のまどくん」をあたりまえの子どもと思えるのは、「のまどくん」と同じようなことを経験し、叱られながれも許され、そのまま、そこにいることを否定されずに大きくなった人ではないかしら、と、話しは進みます。
大人からすれば、いい子ではなく、もっといえば、イヤな子。
私はたしかにイヤな子、でした。
今だって、そうだと思います。
だからといって愛されてこなかったかといえば、けしてそうではない、と、思います。(積極的に愛されたか?といえば、どうやろ…。でも、そんな感じがちょうどいいような気もします。いや、どうやろ…)
そのイヤな子の、経験、自覚、の有る無しが、絵本作家(または児童文学者など、子どもに関わる全ての大人)の、力量(大人力)となって、子どもと向き合うことになるのではないでしょうか。
機会があってお話ししたことのある絵本作家さんの中には、絵本制作時に子どもを意識することはないという人もいます。
自覚的にはそうなのかもしれませんが、おそらく、無自覚に、自然のうちに、自身の内にいる子ども(「のまどくん」)と、対話しているのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。
その、内なる子ども像が、絵本に現れ、絵本を通して子ども(読者)に伝わるのではないでしょうか。
なんてことを、お酒飲みつつ、深い時間に話すのです。
絵本作家さんの話。というよりは、「内なる子ども話」なのかもしれませんね。
結局は、自分話。
ただし、絵本=子どもの本 と思っているわけではありません。
が。
この話になると………朝が来ます、よ。
そして只今考察中。
絵本。というよりは、絵本作家さん。の。
そして最近、話題の着地となるのが、片山健さん。
の、『のまどくん』。
『のまどくん』 片山健 Gakken おはなしプーカ12 2008 (写真)
片山さんの絵本は、絶対的に子ども側、と思います。
子どもの側に立って、子どもに寄りそって、子どもを開放してくれます。
『のまどくん』は、外に出かけた「のまどくん」が、途中で「ひかるちゃん」に出会い、帰ってくるお話。
「のまどくん」はなんだって拾ってくるし、拾ってきたものを家の中に隠しているし。みずたまりを歩くし、やらなきゃいけないこともないし。
お母さんからすれば、
“また そんな もの ひろって きて” となるような子どもです。
「ひかるちゃん」は、イマドキは特に、変な、というよりは、アブナイ人、にもなってしまいそうな人です。
お母さんが「のまどくん」が「ひかるちゃん」と一緒にいるのを目撃したら…と、いらぬ心配までしてしまいます。
けれども片山健さんは、そんな「のまどくん」を、ご機嫌で嬉しくて元気な子どもとして描きます。
私も「のまどくん」のような子でした。と思えます。
だから、この絵本は、私もご機嫌で嬉しくて元気にしてくれます。
だけど、イマドキの子育て中の大人はどうだろうか。と、そんな話しにもなります。
みずたまりを歩くのを禁止したり、落ちているものを拾うのを禁止したり。禁止するどころか、触るのもダメという場面に出会ったこともあります。
知らない人(「のまどくん」は「ひかるちゃん」を知っていて好きなんですが)と話したり一緒にいることは絶対ダメだろうし。
そして、イマドキ、やらなくちゃいけないことがない子どもって、いるかしら?
それを良し!としている大人って…いる、かしら、ね。
だから絵本『のまどくん』が成り立つのだろうと思います。
「のまどくん」をあたりまえの子どもと思えるのは、「のまどくん」と同じようなことを経験し、叱られながれも許され、そのまま、そこにいることを否定されずに大きくなった人ではないかしら、と、話しは進みます。
大人からすれば、いい子ではなく、もっといえば、イヤな子。
私はたしかにイヤな子、でした。
今だって、そうだと思います。
だからといって愛されてこなかったかといえば、けしてそうではない、と、思います。(積極的に愛されたか?といえば、どうやろ…。でも、そんな感じがちょうどいいような気もします。いや、どうやろ…)
そのイヤな子の、経験、自覚、の有る無しが、絵本作家(または児童文学者など、子どもに関わる全ての大人)の、力量(大人力)となって、子どもと向き合うことになるのではないでしょうか。
機会があってお話ししたことのある絵本作家さんの中には、絵本制作時に子どもを意識することはないという人もいます。
自覚的にはそうなのかもしれませんが、おそらく、無自覚に、自然のうちに、自身の内にいる子ども(「のまどくん」)と、対話しているのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。
その、内なる子ども像が、絵本に現れ、絵本を通して子ども(読者)に伝わるのではないでしょうか。
なんてことを、お酒飲みつつ、深い時間に話すのです。
絵本作家さんの話。というよりは、「内なる子ども話」なのかもしれませんね。
結局は、自分話。
ただし、絵本=子どもの本 と思っているわけではありません。
が。
この話になると………朝が来ます、よ。
そして只今考察中。
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