絵本はいいなぁ ― 2011年04月04日
久しぶりに、りとるへ行きました。
店内は、春の新刊本がいっぱい!(写真)
店内は、春の新刊本がいっぱい!(写真)

なかでも、薔薇の木よりも小さいかわいらしい女の子が描かれていて、黄色い表紙が印象的な絵本が、
『ちいさなちいさなおんなのこ』
フィリス・クラシロフスキー 文
ニノン 絵 福本友美子 訳 福音館書店 2011/3
お話も、かわいらしいです。
小さな女の子の生活が描かれ、
その子がどれだけ小さい女の子なのか教えてくれるのですが、
少しずつ、女の子は大きくなっていき、
そして…? とお決まりな展開。
だれもが小さかったんだよね。
ずっと小さいままでいるのかと思っていたのに、
いつの間にか大きくなって!
そんな小さな子どもの成長が、
うれしくもたのもしくも感じられる絵本です。
今日できなかったことが明日はできるかもしれない。
きっとできるよ!
というメッセージを受け取ることができます。
いいなぁ。
絵本はいいよぉ。
ココロがおかしなふうにざわつくばかりなこの頃なので、
よけいに、
絵本が伝えてくれるささやかな日常、
なんでもない生活のよろこびに、
しみじみとひたって、
へんなふうにコリカタマッタココロが、
じんわりとほどけていくようなココロもちとなりました。
そしてそんな絵本に、
支えられて生きていた頃があったことを思い出しました。
それは、カメ係がまだ小さくて、
明日(の学校)が始まることに不安を抱いていた頃。
見守ったり、そばにいて支えたりしながら、
私自身も明日が見えないことに不安を感じていました。
そんなときに出会った絵本。(写真)

『あすは きっと』
ドリス・シュワーリン ぶん
カレン・ガンダーシーマー え
木島始 やく 童話館出版 1997/6
子どもたちがねむるころ、
“あすは いっぱいできるよ、
きょう できなかったことも”
と語りかけてくれる絵本です。
そして最後には、
“キスを いっぱい”
もらえます。

私はこの絵本を、私のためだけに読みました。
読んで、何度もなぐさめられました。
そして、明日を強く信じて、
不安がる子どもを受け止めつづけました。
今、
たくさんの大人たちが、
不安を抱いておろおろしているような気がします。
「子どものことが不安」なのはもちろんですが、
大人自身もそれ以上に不安で、
その不安が子どもたちに伝染してしまっている様子もあります。
被災地の子どもたちに、
絵本や児童書を送る活動があれこれ始まっています。
被災地の子に限らず、
子どもに限らず、
こんな日々だからこそ、
絵本を開いて、
ゆったりとした呼吸をしてもらいたいと思います。
絵本は、いいです。
ロベルト・ヴィクトロヴィチという男 ― 2011年04月10日

余震が絶えない毎日です。
地球と一緒に私も揺れようが、
私のココロが勝手に一人で渦巻いて揺れようが、
それでも、本読みは続いています。
この春、
女子高生になりたての子に、
絵本でなく、
児童文学でなく、
Y・Aでもなく、
ファンタジーでもなく、
流行小説でもない本を探しています。
推理小説は彼女の得意分野というのでそれもはずして。
となると、
私が思い浮かぶのは、
ちょっとクセのある外国の小説。
以前に読んだ本や、
ネットで検索した本、
書店や図書館の棚で見つけた本を借りては読み借りては読み、
して、
地味な本読み、本探しを続けています。
昨日は、一冊読了するも今一つで。
それは、日本人の人気作家さんの小説で、
私にとっては、読まず嫌いの作家さんの一人でした。
若い女性に人気の作家さんと聞いているので、
女子高生になった彼女にどうかな、と思って読んでみました。
読み始めるとすらすらと一気に読めましたが、
どうにも満足できず。
その具合が結局、
物語が「閉じて」いるということなのかもなぁと思ったしだいです。
登場者が都合よく登場し、
物語が作者の描こうとする世界の中だけで完結(閉じて)いるようなのです。
私(読者)がその物語の中で漂う余地がありません。
う~ん。
う~ん。と思いながらもう一冊手にして読みだしたら、
そのまま読了してしまいました。
というか、読み終わるまで眠れなくなってしまいました。
『ソーネチカ』 リュドミラ・ウリツカヤ
沼野恭子 訳 新潮社 2002/12 (写真)
以前から気になっていて時々読んでいる「新潮クレスト・ブックス」の一冊。
今ではロシアの人気作家となった“ウリツカヤの名前を国際的に知らしめた”作品と、訳者あとがきにあります。
第二次世界大戦前後のソヴィエト。
子どものときから本ばかり読んでいた少女・ソーネチカの波乱な人生が、
「静謐な一生」(本のカバーに掲載の紹介文)として描かれています。
ソーネチカの夫となるロベルト・ヴィクトロヴィチの人物像が印象的で。
でも、こういう人(男)を私は他にも知っている。と思いました。
いくつもの小説(さっき読んだ小説にも!)や映画や、噂話で見聞きしてきた男。たち。
と同じ。感じ。
でも、違うのはソーネチカの姿。
貧しさにも社会的な状況にも、弱音を吐かず、
夫の秘密を知っても、怒りも絶望もみせず、
そこに「幸せ」を受け取り感謝するソーネチカ。
そんな女性の人生をただただ「静謐」と思うのか、
それだけではないはず、と思いを馳せるのか、によって、
読後の印象は変化するだろうと思いました。
それは各々の人生経験や人生観によっても違ってくるのだと思います。
だから、
読書会のテキストにすると、えらいことになりそうです…。
はじめは、女子高生の彼女にはどうかなぁ~と思いつつ読んでいたはずですが、
いつの間にか、
私のための物語となって魅了されたまま読了しました。
そしてしばらくソーネチカに思いを馳せ、
私のこれまでを思い、これからを思いました。
物語は開いていて、
私が入るのを許してくれたようでした。
で、若い女子高生の彼女にはどうでしょう。
今、読んでもらいたい気もするし、
ちょっと早いかなぁと思ったりもします。
う~ん。
自分で見つけてくれるのが理想かなぁ。
う~ん。
もう少し探してみましょうか。
地球と一緒に私も揺れようが、
私のココロが勝手に一人で渦巻いて揺れようが、
それでも、本読みは続いています。
この春、
女子高生になりたての子に、
絵本でなく、
児童文学でなく、
Y・Aでもなく、
ファンタジーでもなく、
流行小説でもない本を探しています。
推理小説は彼女の得意分野というのでそれもはずして。
となると、
私が思い浮かぶのは、
ちょっとクセのある外国の小説。
以前に読んだ本や、
ネットで検索した本、
書店や図書館の棚で見つけた本を借りては読み借りては読み、
して、
地味な本読み、本探しを続けています。
昨日は、一冊読了するも今一つで。
それは、日本人の人気作家さんの小説で、
私にとっては、読まず嫌いの作家さんの一人でした。
若い女性に人気の作家さんと聞いているので、
女子高生になった彼女にどうかな、と思って読んでみました。
読み始めるとすらすらと一気に読めましたが、
どうにも満足できず。
その具合が結局、
物語が「閉じて」いるということなのかもなぁと思ったしだいです。
登場者が都合よく登場し、
物語が作者の描こうとする世界の中だけで完結(閉じて)いるようなのです。
私(読者)がその物語の中で漂う余地がありません。
う~ん。
う~ん。と思いながらもう一冊手にして読みだしたら、
そのまま読了してしまいました。
というか、読み終わるまで眠れなくなってしまいました。
『ソーネチカ』 リュドミラ・ウリツカヤ
沼野恭子 訳 新潮社 2002/12 (写真)
以前から気になっていて時々読んでいる「新潮クレスト・ブックス」の一冊。
今ではロシアの人気作家となった“ウリツカヤの名前を国際的に知らしめた”作品と、訳者あとがきにあります。
第二次世界大戦前後のソヴィエト。
子どものときから本ばかり読んでいた少女・ソーネチカの波乱な人生が、
「静謐な一生」(本のカバーに掲載の紹介文)として描かれています。
ソーネチカの夫となるロベルト・ヴィクトロヴィチの人物像が印象的で。
でも、こういう人(男)を私は他にも知っている。と思いました。
いくつもの小説(さっき読んだ小説にも!)や映画や、噂話で見聞きしてきた男。たち。
と同じ。感じ。
でも、違うのはソーネチカの姿。
貧しさにも社会的な状況にも、弱音を吐かず、
夫の秘密を知っても、怒りも絶望もみせず、
そこに「幸せ」を受け取り感謝するソーネチカ。
そんな女性の人生をただただ「静謐」と思うのか、
それだけではないはず、と思いを馳せるのか、によって、
読後の印象は変化するだろうと思いました。
それは各々の人生経験や人生観によっても違ってくるのだと思います。
だから、
読書会のテキストにすると、えらいことになりそうです…。
はじめは、女子高生の彼女にはどうかなぁ~と思いつつ読んでいたはずですが、
いつの間にか、
私のための物語となって魅了されたまま読了しました。
そしてしばらくソーネチカに思いを馳せ、
私のこれまでを思い、これからを思いました。
物語は開いていて、
私が入るのを許してくれたようでした。
で、若い女子高生の彼女にはどうでしょう。
今、読んでもらいたい気もするし、
ちょっと早いかなぁと思ったりもします。
う~ん。
自分で見つけてくれるのが理想かなぁ。
う~ん。
もう少し探してみましょうか。
桜、咲きます ― 2011年04月13日

我が家の盆栽桜、
一日ごとにつぼみがふくらんでいます。(写真)
いいですねぇ。
近所のソメイヨシノは、
都知事選のころ満開で、
桜見がてら投票にでかけました。
結果はまぁ、そういうことだったです。
それでどうなっていくんやろねぇ、
東京オリンピック、やるん?とか思う間もなく、
大きな余震や、
レベル7の報道で、
揺れること揺れること。
一度、西友店内にいるとき揺れました。
店内放送が、
エレベーターとエスカレーターに乗らないようにと言い、
棚から離れ、広い通路への移動を促していたとき、
見知らぬおばさまから、
「もうほんとうに怖いわねぇ」と声をかけられました。
「ほんとうに」と言葉を返して目があったら、
なんでだか、お互いにっこり微笑みあいました。
なんで微笑んだのかなぁ。
私もあの人も。
困るわねぇ。 の苦笑だったかもしれないし、
でも、大丈夫ですよね。 の気持ちだったのかもしれない。
ちょっとわからないけど。
だけどあのときの微笑みあいがその後もずっと心に残っていて、
思い返すたびに、
今も、東京にいてていいんやわねぇ。私。
と、なんでだかそんなことを思ってしまいます。
レベル7の報道で、
さらに不安にかられた母親たちの動揺の言葉を拾うようになりました。
直接聞いたわけではないけれど、
直接聞いたら私はどうするのだろうかと思います。
逃げて!って言う?
大丈夫!って言う?
冷静に!って言う?
きっと何も言えずに、
そばにいることしかできひんような気がします。
でも、私が不安で動揺してたらそうしてもらいたいとも思います。
そうしてもらって救われたことがたくさんありましたから。
そばにいること、一緒にいること。が、
安心感につながるって、そういうことなのかもしれません。
ああ、だからあの人とも微笑みあったのかも。
西友の、食品売り場の棚の間で。
満開の桜も晴れ晴れといいものですが、
これから咲こうとする桜もいいですねぇ。
桜だけじゃなくて、
いいものはちゃんとあります。
ひとつ。
また、ひとつ。
ひとつずつ。
でいいから。
みつけていきますわよ!
一日ごとにつぼみがふくらんでいます。(写真)
いいですねぇ。
近所のソメイヨシノは、
都知事選のころ満開で、
桜見がてら投票にでかけました。
結果はまぁ、そういうことだったです。
それでどうなっていくんやろねぇ、
東京オリンピック、やるん?とか思う間もなく、
大きな余震や、
レベル7の報道で、
揺れること揺れること。
一度、西友店内にいるとき揺れました。
店内放送が、
エレベーターとエスカレーターに乗らないようにと言い、
棚から離れ、広い通路への移動を促していたとき、
見知らぬおばさまから、
「もうほんとうに怖いわねぇ」と声をかけられました。
「ほんとうに」と言葉を返して目があったら、
なんでだか、お互いにっこり微笑みあいました。
なんで微笑んだのかなぁ。
私もあの人も。
困るわねぇ。 の苦笑だったかもしれないし、
でも、大丈夫ですよね。 の気持ちだったのかもしれない。
ちょっとわからないけど。
だけどあのときの微笑みあいがその後もずっと心に残っていて、
思い返すたびに、
今も、東京にいてていいんやわねぇ。私。
と、なんでだかそんなことを思ってしまいます。
レベル7の報道で、
さらに不安にかられた母親たちの動揺の言葉を拾うようになりました。
直接聞いたわけではないけれど、
直接聞いたら私はどうするのだろうかと思います。
逃げて!って言う?
大丈夫!って言う?
冷静に!って言う?
きっと何も言えずに、
そばにいることしかできひんような気がします。
でも、私が不安で動揺してたらそうしてもらいたいとも思います。
そうしてもらって救われたことがたくさんありましたから。
そばにいること、一緒にいること。が、
安心感につながるって、そういうことなのかもしれません。
ああ、だからあの人とも微笑みあったのかも。
西友の、食品売り場の棚の間で。
満開の桜も晴れ晴れといいものですが、
これから咲こうとする桜もいいですねぇ。
桜だけじゃなくて、
いいものはちゃんとあります。
ひとつ。
また、ひとつ。
ひとつずつ。
でいいから。
みつけていきますわよ!
ここそどがね! ― 2011年04月22日
もともと、
油断ならない生活、というか人生を過ごしているので、
昨夜の、
ああちょっと緩んでよかですか~と思った矢先の、
エリアメール(緊急地震速報)と直後の揺れ、が続く生活にも、
慣れはしませんが、
あらがう気にはなれず。
できるまでの備えと心構えの上で、
ひとつひとつの揺れを乗り越えていくしかないやろなぁ…とあらためて思ったしだいです。
原発関連の情報も、
気になるものは調べ、
これもまた、ひとつひとつ、
そのつど自分の中で整理して治めていく日々。
治まりきらないものもあるけど、
それはなにもこのたびの原発事故や被曝の危険性のことに限りませんし。
思えば、何年も何年も、私の人生は、
そういう治まらないものを治めることにあたふたしたことの連続だったような気がします。
と、
あちらこちらで拾い続ける、
切迫した、
ややヒステリックな感じさえ受け取れてしまう、
不安や不信や不満を伝える言葉のカタマリの置き所を探しながら、
思うことがたびたびあるようになりました。
そんなことをぼんやり思いながら、
それでも日常の生活も続くのよ、と、
ゆうちょ銀行のATMで入金しようとしましたら、
500円硬貨一枚が戻ってきて入金できませんでした。
どうやら旧デザインの硬貨であったため機械が受け取ってくれなかったもようです。
さて、どうしましょ。
こういう些細なことでも、思わぬことが起きると一瞬にしてフリーズしてしまうのは、やはり、ココロに余裕がない証拠ですね。
しばし思案の後、いったん帰って出直すことに。
家に帰ればとある請求書が届いていて、
これも一緒に支払おうと明細を見ると、
心当たりのないものでした。
んんんんん。
いったんフリーズしたアタマがさらに強固にフリーズしてしまいました。
実は、震災前に新しいPCを購入していて、
旧PCと新PCを使い分けつつ、新PC主体の作業に移そうとしていたところの震災とその後の混乱で。
当時、ソフトの更新とかどうしたんだっけ…と思い出そうとするも記憶が定かではなく。
請求は、そのソフトの代金と思われるのですが、
どうにも確信が持てません。
でももうなんだかあれこれ面倒にもなってきて、
いいや、このまま支払っちゃえ!と思ったりもしましたが、
でもなぁ、
ここでまた治まらないままに流すのもなぁと思い直し、
代金を請求してきた会社に問い合わせをしてみました。
そしたら結局、「請求を取り消し致します」との答え。
ということは?
購入していないのに代金請求をされたってこと? でした。
なんでそうなるの?
と聞いてみましたが、そのあたりはうまく(?)はぐらかされてしまって、
私も半解凍フリーズアタマだったので、
「じゃあ取り消しでよろしくお願いします」で終わらせてしまいました。
やれやれ。。。
で、何をしようとしてたんだっけ?
と500円のことを思い出し、思わず、
「ああ!ここそどがね!」(出雲弁・落ち着きがない)
と声を上げてしまいました。
だいたいこんなときに500円のためにわさわさする~?って、
そんな自分にちょっと立腹。
で、どさくさに紛れて勝手に請求書出さないでよ!って、
ソフト会社に八つ当たり。
ここそどがね!
ここそどがね!
と、口に出して言っているうちに、
それでなんだかちょっと面白くなってきました。
ここそどがない、って出雲弁、よく思い出したものです。
感情が入ると関西弁になることが多いんですけど、
ここで出雲弁が出てくるって、
いよいよ感情がむき出しになってきたってことでしょうかしらねぇ。
畏るべし!出雲弁。
そしてほんとうに「ここそどがない」わねぇと思います。
これらの日々。
今日も明日も明後日も。
ここそどなく過ぎて、
それでもどうにか無事に過ぎていきますように。
と祈るしかありません。
ここそどなく、
治めつつ、
乗り越えていくばかりです。
油断ならない生活、というか人生を過ごしているので、
昨夜の、
ああちょっと緩んでよかですか~と思った矢先の、
エリアメール(緊急地震速報)と直後の揺れ、が続く生活にも、
慣れはしませんが、
あらがう気にはなれず。
できるまでの備えと心構えの上で、
ひとつひとつの揺れを乗り越えていくしかないやろなぁ…とあらためて思ったしだいです。
原発関連の情報も、
気になるものは調べ、
これもまた、ひとつひとつ、
そのつど自分の中で整理して治めていく日々。
治まりきらないものもあるけど、
それはなにもこのたびの原発事故や被曝の危険性のことに限りませんし。
思えば、何年も何年も、私の人生は、
そういう治まらないものを治めることにあたふたしたことの連続だったような気がします。
と、
あちらこちらで拾い続ける、
切迫した、
ややヒステリックな感じさえ受け取れてしまう、
不安や不信や不満を伝える言葉のカタマリの置き所を探しながら、
思うことがたびたびあるようになりました。
そんなことをぼんやり思いながら、
それでも日常の生活も続くのよ、と、
ゆうちょ銀行のATMで入金しようとしましたら、
500円硬貨一枚が戻ってきて入金できませんでした。
どうやら旧デザインの硬貨であったため機械が受け取ってくれなかったもようです。
さて、どうしましょ。
こういう些細なことでも、思わぬことが起きると一瞬にしてフリーズしてしまうのは、やはり、ココロに余裕がない証拠ですね。
しばし思案の後、いったん帰って出直すことに。
家に帰ればとある請求書が届いていて、
これも一緒に支払おうと明細を見ると、
心当たりのないものでした。
んんんんん。
いったんフリーズしたアタマがさらに強固にフリーズしてしまいました。
実は、震災前に新しいPCを購入していて、
旧PCと新PCを使い分けつつ、新PC主体の作業に移そうとしていたところの震災とその後の混乱で。
当時、ソフトの更新とかどうしたんだっけ…と思い出そうとするも記憶が定かではなく。
請求は、そのソフトの代金と思われるのですが、
どうにも確信が持てません。
でももうなんだかあれこれ面倒にもなってきて、
いいや、このまま支払っちゃえ!と思ったりもしましたが、
でもなぁ、
ここでまた治まらないままに流すのもなぁと思い直し、
代金を請求してきた会社に問い合わせをしてみました。
そしたら結局、「請求を取り消し致します」との答え。
ということは?
購入していないのに代金請求をされたってこと? でした。
なんでそうなるの?
と聞いてみましたが、そのあたりはうまく(?)はぐらかされてしまって、
私も半解凍フリーズアタマだったので、
「じゃあ取り消しでよろしくお願いします」で終わらせてしまいました。
やれやれ。。。
で、何をしようとしてたんだっけ?
と500円のことを思い出し、思わず、
「ああ!ここそどがね!」(出雲弁・落ち着きがない)
と声を上げてしまいました。
だいたいこんなときに500円のためにわさわさする~?って、
そんな自分にちょっと立腹。
で、どさくさに紛れて勝手に請求書出さないでよ!って、
ソフト会社に八つ当たり。
ここそどがね!
ここそどがね!
と、口に出して言っているうちに、
それでなんだかちょっと面白くなってきました。
ここそどがない、って出雲弁、よく思い出したものです。
感情が入ると関西弁になることが多いんですけど、
ここで出雲弁が出てくるって、
いよいよ感情がむき出しになってきたってことでしょうかしらねぇ。
畏るべし!出雲弁。
そしてほんとうに「ここそどがない」わねぇと思います。
これらの日々。
今日も明日も明後日も。
ここそどなく過ぎて、
それでもどうにか無事に過ぎていきますように。
と祈るしかありません。
ここそどなく、
治めつつ、
乗り越えていくばかりです。
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