立派感のカケラもなし2010年06月05日

小平へ行ってきました。

ルネこだいら中ホールでの
映画「葦牙」の上映会です。

ルネこだいらは、西武新宿線小平駅前にあって、
行けばどど~んとすぐにわかるのですが、
私は、小平駅、どころか、
西武新宿線に一人で乗ったことあったっけ?というほどの初心者なので、
中央線の国分寺駅で乗り換えたあと、
次の乗り換え駅がわからなくなって焦ったり、
乗り換えホームを間違えて後戻りしそうになったり、で、
たどり着くのに集中力が必要でした。

それで、無事にルネこだいらに到着し、
会場で席を決めてよっこらしょと座ったら、
それでもうなんだかすんだような気になってゆるんでしまっていました。

が、

会場は、中高年の「高年」さんを中心にどんどん埋まっていき、
あちこちから聞こえてくる会話や、
名前を呼んで席を勧める声に、
もしかしたら私って場違い、かも?と思いはじめ、
いやいや、そんなことはどうでもよかろう~と思い直し、
静かに上映を待ちました。

映画はおよそ2時間。

「途中に休憩はございませんので、トイレは上映前にお願いします」
という事前のアナウンスがあり、
トイレ、よりは腰が痛くなると困るなと思い、心配しましたが、
少しも時間の長さを感じさせない映画でした。

映画は、
その後にあった監督さんのトークショーで垣間見れた監督さんの人柄が、
そのまま映し出されていたような気がして、
いや、
そういう感想ではいけないのかもしれませんが、
私は、なんだかちょっと嬉しくなっていました。

子どもたちを囲んでいる大人が、みなさん大人でした。

ちゃんと大人をやってくれている大人の中にいるから、
子どもたちは、
安心して子どもでいられると思っています。

ちゃんとした大人でなくても、
 (ちゃんとした大人ってどんな大人かわかりませんが)
子どもにとっては、
ちゃんと、大人でいてくれれば、それで。

その一方で、
インタビューに応じた母親の言葉や表情に、
私は居心地の悪い不安なものを感じました。

母親は自分もまた虐待を受けてきたと言います。

それで、
虐待の連鎖、
暴力の連鎖、
が、
そこに生じていることを知らされます。

知らされる、と同時に、
加害者である母親は実は被害者でもあるのだ。
と、意識がスライドしていきます。

そのスライドする意識のゆらぎの隙間に、
母親がするりと入り込んでくるのです。

子どもにとってはそんなことは何の言い訳にもならないはずなのに。

その、居心地の悪さ。

私はそれを居心地悪いと感じてしまいます。


そしてまた映画を見ながらずっと、
他者から見れば子育てに熱心だったり、
子どものためにとがんばっている親によって、
精神的に追い詰められていく子どものことを考えていました。

暴力による虐待は目に見えやすいのですが、
精神的な虐待(虐待と言っていいと思います)は、
どうやったらそれと自覚できるようになるのでしょうね。


トークショーの中で観客との質疑応答があり、
「児童虐待は、個人の問題ではなく社会の問題だと思っている」という観客の発言がありました。

たしかに、社会の問題かもしれません。

でも、
私にはそれはただ立派感のある言葉にしか聞こえませんでした。

立派感。

映画が始まる前にも感じた、空気。

立派感を放つ、活動する人たちを前にして、
私は、
黙るしかないような気になります。

そういう人たちによって、この社会はよりよいものへと動いていっているって、一応、わかってはいるんですけどね。。。

それから、映画の後半、泣いてずっと鼻をすすっている観客がいました。

児童虐待。
育ち直し。

映画「葦牙」は、
さまざまな感情の波を立たせ、
ココロの底に沈み込んでいる思いを揺さぶる映画でした。


そんなことをぼやぼや思ったものの、
小平駅からは、帰りの乗り換えのためにまた集中!です。


もうちょっと余裕で電車を乗りこなせるちゃんとした大人になりたい…。

結局、一日の終わりの感想がそんななんでした。

捨て捨て2010年06月09日

地道に、細々と、黙々と、
部屋の片づけを進めています。

仕事や出かける用事が続くと、
ほったらかし中断となりますが、
まとまって家にいるときには、
まず、食材確保に西友に出かけ、
2,3日はひきこもります。

それは、棚上げ案件の重要事項であって、
我が家の、
初期微動継続期間中に、
できるだけやっておきたいことでもあります。

でも、
片づけても片づけても、
捨てても捨てても、
次々と、出てきます。

思い出が。 

思い出をたっぷりと含んだ品々が。

私が捨てるのを迷うものをカメ係は捨てろといい、
カメ係が捨てるというものを私はええ?捨てるの?といい、
私が捨てるというものをカメ係が自分の部屋に置いておくといい。

そんなことのしばしばの繰り返し。

それでも、このひと月の間に、 
思い出、どころか、
当時の暮らしの中心にあったパソコンをようやっと処分し、
 (その処分方法ってちょっと面倒でした)
そのすっきり感でもって、
次々と、
これまで捨て切れなかったあれやらこれやらに、
どしどし捨て判定をくだしています。

すると、今度は処分待ちの「ゴミ」がたくさんになり、
それをまた分別して、まとめて、
マンションのゴミ集積所に出すのに時間がかかったり、
本を売りに行った古書店で、別の本を買い込んでしまったり、
して、
片づけているのか散らかしているのか、
捨てているのか増やしているのか。

まるで私の人生そのもの。ですね。まったく。


しばらく音沙汰なければ、
部屋で、
捨て作業をしていると思ってください。

捨てて捨てて、身軽になって、
それで、
どこでどうするかは、
未定です。

捨てません2010年06月11日

今回の捨て作業のこれまでと違うところは、
絵本を含めた子どもの本や関係書籍も、
ばんばん捨てているところです。

捨てて。

捨てて、古書店さんに引き取ってもらっています。

一度には捨てきれないので、
数回に分けて。

今回は、
昨年の片づけ作業でカメ係の部屋から運び出され、
私の部屋に「一時預かり」となっていた絵本も含め、
30冊以上の絵本に捨て判断をしてまとめたのですが、
それを見たカメ係から「待った!」がかかりました。

そしてカメ係によって、
捨て判断が、捨てない決定となった絵本たち。(写真)
おっみごと!
と、うなってしまいました。

どの絵本も、たしかに二人で開き読んだものばかり。
つまりは、昨年までカメ係の部屋にあった絵本たち。

そしてそのまま捨て決定となった絵本は、
カメ係との縁のないものたち。

ここまで見事に分けてくれるとは思っていませんでした。
というか、それでも、もういらない、と、言うのかと思っていました。

なんだか、ほんとうにうらやましい。

私にはこういう絵本が一冊もありません。から。


今回、なんで絵本も処分してしまおうと思ったのか、
それは、
もう、絵本を追いかけるのにくたびれた感があるからです。

ずっと追いかけてきましたから。

私のなかには絵本がなかった。
ので。
ずっと、追いかけていたような気がします。
が、
もう、いいかな。と。

追いかけなくても、いい。
かな。

というより、
追いかけたいほどの魅力が、今の絵本にはない。と、
どこかで判断をくだしてしまった感じでしょうか。

追いかけなくても、
私のなかに絵本がなくても、
次の世代に手渡せたのは確かですし。ね。


追いかけるのやめて、
どうしましょうか。

これもまた私の人生と同じですねぇ。

追いかけるのやめたら、
見える景色も違ってくるのでしょうねぇ。

捨てるものと捨てないもの。
捨て、られないもの。

いろいろ抱えて今日も片づけています。


「キノコはおどる ぱぱ らぱ おどどー」2010年06月13日

作者デイジー・ムラースコヴァーは、
チェコを代表する画家だそうです。

 『なかないで、毒きのこちゃん 
    森のむすめ カテジナのはなし』(写真)
      デイジー・ムラースコヴァー/作
      関沢明子/訳 理論社 2010/03

“「緑色の血」が流れる、生まれながらの森のあるじ”である猟師。
その猟師の娘で、
“やはり「緑色の血」をもった森の娘”カテジナ。

カテジナと、森の生きものたちが奏でる森の物語が、短いお話を積み重ねて描かれています。

物語に添えられている絵はカラー。
文章は横組み。

物語絵本、とも、童話集、とも違う、
不思議な魅力いっぱいの本です。

森の少女カテジナが、リスやウサギ、カシの木、シカ、キノコ、トカゲ、虫や鳥、ヤマネコ、花、ヒキガエル、クマ、など、たくさんの生きものと会話するお話、と聞けば、
どこか甘くて幼い子の物語と思ってしまいそうです。
けど、
それだけではない、
神話、とも、寓話、とも違う、
哲学や真理といったものを感じさせながら、
もっと身近で、根本的な、
人や生きものや森や、それらを全部含んだ生きるものの世界の、
生きる喜びや不思議が語られ、描かれています。

森も、
静寂も、
夕方も、
また、
生きる喜びを語るもの、として、
あたりまえのようにカテジナの世界にいます。

そして、その語られる言葉の豊かなこと。

宮澤賢治もびっくり(?)のオノマトペには、
思わず、
誰も聞いていないのに声に出して読んでみたくなるほどの面白さがあります。

「クマにはわからない」のクマ。
「口のたっしゃなウサギ」のヤーチーチェク。
「泣きむしのベニテングタケ」の毒キノコ。

など、
森の生きものはみな個性的で魅力的。
語る言葉は時に辛辣で、
ぷぷっと、笑いももれてきます。

“わたしはみんなにきらわれているの”と泣く毒キノコ。
“わたしをわざとふんづけていく人がいるの”と泣き、
カテジナが、
“そんなことするのはばかな人だけ……”と慰めるのですが、
毒キノコは、
“だってそんなばかがいちばん多いんだもの。おうおうおー”
と泣き続けます。

「おうおうおー」

いい泣きっぷりです。

そして私にも泣きたい気分になることがあるけれど、
「そうよ!みんなばかばっかりなのよ!おうおうおー」と一声叫んだら、
それですっきり!
泣かずにすませられそうな気がします。

それから、
カテジナが毒キノコをどうやって泣きやませたかのお話は、
本を読んでお楽しみいただければ、と思います。


チェコの森に行かなくてもカテジナに会えるから、
本ってやっぱり面白いですね。
って言うと、
“なまけものってわけだ”と、
「クマにはわからない」のクマに、また言われてしまいそうです。

“つまり本とは、鼻のきかないなまけもののためにあるんだな。
 くだらん。
 おれの子どもには見せたくないもんだな”

と言うクマですから。

つまりクマは、
出かければ会えるやん!と言いたいのです。
本で見るんじゃなくて、出かけていけば、と。

たしかに!

でも、そんなシンプルな世界に暮らしているわけじゃないから…。

けど、そんなことを言うクマも魅力的。



その、クマにも会えます。

あめつちとともにながくひつきとともにとほくかわるまじきつねののり2010年06月16日

聖徳太子は実在しなかった。

という噂(説)は、
実はうすうす聞いて(読んで)いました。

が、まさかこの本でそれをじっくり聞く(読む)ことになるとは思っていませんでした。


 『天孫降臨の夢 藤原不比等のプロジェクト』 (写真)
   大山誠一 NHK出版 2009/11


『古事記』にまつわる本を読んでいると、『日本書紀』も気になってきます。
でも、
それでなくても『古事記』だけでごちゃごちゃな神さまの名前や関係が、
もうお手上げ状態になってしまうとわかっているので、
『日本書紀』には手を出さない、触らないようにしてきました。

でも、つい魔がさしてしまって、
この本を図書館にリクエスト。

『古事記』でも『日本書紀』でもなく、
天孫降臨神話と藤原不比等が結びついているタイトルに、
ちょっとした興味を持ってしまったのでした。

それがいきなり、
著者が、聖徳太子架空説の論文を書いた人とわかり、
おおおおお!
それはもう10年以上も前のことだったんですね。

そして、この本は『日本書紀』を検証していました。

やばい。
まだ早くない?

と思いつつ、どうにか読了までこぎつけたのは、
著者のクールな視点と語り口と、
わかりやすい資料(地図・系図・表・写真)のおかげではないかと思います。

『古事記』と『日本書紀』(『記紀』)の相違もわかりやすく、
特に、天孫降臨神話に登場する神さまの分類表には見入ってしまいました。


藤原不比等のプロジェクトも、
X(草壁皇子の擁立)
Y(軽皇子の擁立)
Z(首皇子の擁立)
とに分けられ検証されています。

どんな権力者であっても避けることのできない人(皇子・天皇)の死が、
不比等のプロジェクトを複雑なものにしたようです。

そしてそれが『記紀』の神話成立に影響を与えたということのようです。


“『記紀』の神話、つまり高天原・天孫降臨・万世一系の神話は、日本人が古くから伝えてきた伝承ではない。”

と、著者は締めくくります。

“七世紀末から八世紀にかけて藤原不比等が作ったものである。”

と。

それは何のためか。
は、言わずもがな、なことでしょうけれど、
こうもはっきり言われてしまうと、
なんだか、
これまで教わったり、なんとなく聞き入れて、そういうものか、とイメージしてきた日本観・日本人観、といったものが揺らいできます。

いや、そもそもずっとその揺らぎを感じてきたから、
この揺らぎは何?
と考える中で続けている、読み散らかし読書、なのですけど。


だからといってすっきりしないのは、
(藤原不比等の企ては)
“不比等の思惑を超えて、今なお日本の隅々に及んでいる。日本人は、今なお不比等の呪縛下にある。”
という言葉の深刻さを感じるからなのかもしれません。

深刻。
を通りこして、呆れる感じ、でもあるような気がして。
それがなぜかはまだわからないのですが。

例えば、
不比等がプロジェクトZで用意したという「不改常典(ふかいのじょうてん)」。
その名は他の本でも見かけたことがありますが、 著者はこれも不比等の創作だとしています。

「与天地共長与日月共遠不改常典
   (あめつちとともにながく
      ひつきとともにとほく
        かわるまじきつねののり)」

を略して「不改常典」。
と言うのは初めて知りました。

どなたがお作りになったか、ということよりも、
すごいネーミング!というところに、クギヅケ、で、
そういう私の反応に、自分で呆れている、といった感じでもありますけど。


これだから、
どれだけ読んでも、なかなか身につかないのでしょう。ねぇ~。



ところで、そんななか、
“「ユダヤ人」はシオニズムによる発明”
という見出しの新聞記事に目が止まりました。

「著者の窓辺 『ユダヤ人の起源』 シュロモー・サンド」
  (朝日新聞 Monday,June 14,2010)

“私は歴史分析によって「(現在の)ユダヤ人に聖書のユダヤの民とつながる起源はない」とユダヤ人というアイデンティティーを否定しました”

と著者はインタビューに答えています。

なんて!

と、また魔がさして図書館チェックをしそうになりました。
が、堪えました。
というか、堪えています。(現時点では)

 『ユダヤ人の起源 
   歴史はどのように創作されたのか』
      シュロモー・サンド 高橋武智/監訳 
        佐々木康之・木村高子/訳
          武田ランダムハウスジャパン 2010


これではますます揺らぎますでしょ。

どなたか、止めて…。